NHK情報化メデイア懇談会講演録

第166回 NHK 情報化メデイア懇談会講演録 柳田公市 1997.12.11(於:KKR HOTEL Tokyo)


私がなぜ、インターネットの世界に踏み込み、今、軸足をかなり移し始めているかというところからお話をします。私がセゾンを離れたのは89年です。バブルがはじけた年で、セゾン・グループが元気だった最後のころです。ちょうど40歳でした。漢然と、人生を10年サイクルの節目で区切っていました。30歳になったら家を建てよう、そして家が建った。40歳になったら会社をつくろう、そしてできた。この時は、自分がオ一ナーではなくて香港系企業の専務取締役のポジションで設立しました。サラリーマンの垢落とし期間です。セゾンにいる問は、給料をもらいながら海外生産を含めた商品開発の勉強をさせてもらいましたごセゾン・グループのなかのセゾン学校みたいなものです。海外開発がいちばん盛んだったのが、中曾根政権のときです。「l人100ドル輪入品を買いましょう」という時期にたまたま商品開発に関わっていましたので、海外出張を面白いほどさせてくれるわけです。セーターをつくりたいというと、オーストリアのシェラードミングという所へ飛ぶ。そこにシェラードミング・ウールという黒い羊がいます。ぞの羊の毛を使うと、染めなくても黒いセー夕一ができる。つまり染色の公害はないわけで、その糸をそのまま使えばいい。また、内モンゴルにカシミヤのいいものがある。スコットランドのカシミヤは非常にいいものですが、原毛はモンゴルから入れています。ニッターで素晴らしい所があるとエジンパラから遠く離れた、ホーイックと言うスコットランドの田舎町にでかける。原毛を求めて、内モンゴルに行きたいというと、行ってこいという。今では考えられないくらい柔軟な対応をしてくれていました。その後、中国には何度も行っていまして、多い年は年間延べ日数で100日以上中国にいたことがあります。これだけ海外に出ていますが、観光地には行ったことがありません。ほとんど観光客の行かないところばかり行っています。ですから89年に独立する時に何を考えたかというと、人の嫌がるところ、行きたくないところにピジネス・チャンスがあるということです。私のモットーは、「楽しくなければ仕事じやない!」と思っています。嫌な仕事は嫌だ。だけど人が嫌がることは絶対にピジネズ・チャンスだと。だれしもやらされ仕事で、交通も宿泊施設も不便で食も馴染まない所には行きたくはありません。しかし、そんな所こそハートツーハートのビジネスが発生します。91年に今の有限会社ケイワンをつくりました。ちょうど、NHK特集で黄海経済圏の特集をやっているころで、その中心の場所がウエイハイ(威海)です。威海はシャンドン(山東)半島の先端にある町で、歴史的には日清戦争終結の地です。清国がここで日本の艦隊に負けたという場所です。ここには目清戦争歴史の島というのがありまして、訪問当初は踏み絵のように案内されて見せられました、そんな威海は私の繊維製品生産のホームグラウンド、バックグラウンドです。当時威海へ行くには、成田からまず北京(ベイジン)に飛び、ローカル空路で青島(チンタオ)に行き、ここから更に車で8時問くらいかかりました。最寄り空港は煙台(ヤンタイ)ですが、乗り継ぎ便も不便なローカル空港です。現在はソウル金浦(キンポ)空港からの便があります。また青島から威海には高速道路も作られました。威海は緯度ではちょうど仙台と同じで、非常にきれいな町です。中韓国交回復してからは、ハングル溢れる都市になっています。その近隣都市を含めての工場を13か所コントロールしました。繊維製品は厚いものや薄いもの、伸縮するなど生地によって縫うミシンが異なり、工場も違うわけです。どこでも縫える、何でもできるというところはだいたい不良品が多く出るものです。この威海から山東省の省都である済南(ジーナン)には車で10時間くらいかかるという気が遠くなるようなところですが、そこから更に5時間以上の都市(ジーニン)まで工場を求めて行った時期もありました。そんな威海へのルートが90年ごろから少し情勢が変わり、こんな苫労をしなくても行けるようになりました。威海と韓国を結ぶウエードン(威東)フェリーという船便が中韓国交回複する前から運航していることを知りました。韓国のインチョン(仁川・ソウルから鉄道で1時間くらい)から威海ヘフェリーが出ていたのです。使っている船は日本のフェリーの中古品です。当時このフエリーに乗る日本人は殆どいませんでした。朝10時に成田を出ると、午後5時出航のフェリーに乗れて、次の日の朝8時に威海に着きます。北東や上海を回って青島経由で入るのと違い、次の日の朝から仕事ができます。中国とこれからビジネスを始めようと考えている方に、ご参考までに申し上げますと、翌日の昼に着くとどういうことが起こるか。着いた途端にまさに昼食時の大乾杯の嵐で、酒に酔って夕方まで仕事ができなくなってしまいます。細かい仕様チェックなどができません。ぞの点、フェリーなら夜寝ているうちに着いてしまい、船内は快適ですから、朝から仕事ができます。そして、なにより船内は国際交流サロンと化します。遠くイタリアに帰る人がこのフェリーを利用して、威海から陸路、北泉、モンゴル、シベリア鉄道ルートを利用したりしていました。香港から韓国に入ってこのフェリーを使い、北京経由インドに向うようなビジネスマンもいたり、台湾人で仁川-威海を毎便のフェリーで行き来して、中国からは松の実等を運び、韓国からはファッション商品を運ぶ事で生計を立てているような人ともお友達になっていました。

なぜ、ここ威海を選んだかというと、まず香港はコストが上がったことです。また上海も大連も繊維製品が活発に生産されていますが、その下請け地域が山東半島です。山東半島に暮らす人は日本でいうと東北人、非常に真面目で粘り強く実直、言ったことは間運いなくやるという気質の人たちです。中国でも南のほうはラテンとは言いませんが、のどかで、「いいじやないの、このくらい」という性楕であるのに対し、ここはち密な仕事も手抜きせずにやってくれます。

話が為替に飛びますが、94年当時は円高が進んでいまして、その年の春には80円台になっていました。ますます円高墓調で、輪入にはうってつけの時代です。そのころ私はほとんど中国に行っていましたが、たまたまジェトロの仕事で8月から10月末まで3カ月ヨーロッパに派遣されました。円高もあって、非常に快適な仕事ができた。そのときに気がついたのは、ョーロッパで日本に輸入するための繊維製品を買おうとすると、ナショナルブランドはついているけれども、生産はフランスでもイギリスでもなく、東欧かファーイースト、アフリカだということです。そうすると日本に輸入するためには、原産囲表示でハンデを負います。更に日本の貿易黒宇解消のための輸入促進ですが、生産国からの直接輸入ではその効果があがりません。なおかつ、当時のまま為替が推移したら、日本は輸出産業ではなくなって、状況は変わるだろうと考え、このまま繊維にどっぷり潰かっていると明日はないかもしれないという危機感を感じました。

前置きが長くなりましたが、私が日本のインターネット元年といっている1994年。おりしもインターネット事業の足掛かりを模素しだした時期でした。なぜ1994年が元年かというと、東芝にいた尾崎憲一さんが94年10月にベッコアメという当時にしては画期的な廉価な固定利用料金のブロパイダを立ち上げました。それに呼応するかのようにパーソナルユーザーが急増したわけです。その翌年の12月が例のウィンドウズ95の大ブームです。ここからインターネットの大合唱が始まりました。船橋の商工会議所の中で私がインターネット!と騒ぎだしたのがちょうど94年の秋です。このころは商工会議所で話をしますと、「インターネットにつなぐといくら儲かるの?」、という質間が非常に多かったのです。そのときにどう答えたかというと、「会社をつくって電話を引いていくら儲かるの?と聞いているのと同じですよ!」、と。会社をつくって、電話やファックスを引いて、それを使ってどう営業をしなければいけないかということであって、インターネットはツールだ、第3の電話だと、わかりやすく話をしました。しかし、わからない。この95年のパソコンの出荷台数が570万台です。これは10月末の電子協の発表の数字です。96年が720万台、97年が800万台といわれています。96年の終わりごろから97年にかけてパソコン出荷台数や個人への普及度合いなどで踊り場現象が見えています。その反面、携帯やPHSが爆発的に普及しています。半年か1年で1千万台から2千万台に倍増です。96年の春ごろ、NTT関連会社のトップの方がこういうことを言っていました。
「もしインターネットの端末が携帯やPHSのように無料で配られたら、これと同じようなことが起こるかもしれない。そうしたらどんなにビジネス・チャンスが広がるでしょうか」と。
これに対し、バカを言うな、パソコンをつくっているハードのメーカーがそんなことをするわけがない、と言います。でも、PHSや携帯はなぜ無料で配れるのか。あれは通信費収益だけではありません。そこから広がるマーケットにはジピネスの綾がヒントとして出てくるだろうと思います。今日のお話のなかからピンときたものがあったら、後で何かご活用いただければ、というレベルでお聞きください。成功のヒントということで、過去事例や成功例と自慢話や失敗談だけを言っても面白くありません。これから、実例に添って新たなビジネスヒントに繋がる話に致します。
インターネットも運用しだいという例をご紹介します。ホンダの子会社のホンダプリモ船橋が今年の春、インターネット接続し、インフォウェブを利用していました、そこの専務から活用法に関する相談を受けました。そこで、企業であれば法人でco.jpは1つしか取れない。インターネットが2000年までに急増したときに、それからドメインをと言っても取れないということで強制的に取らせました。と言うより取得代行でwww.hondaprimo.co.jpを、そしてホームページづくりも私どもが引き愛けました。そこには私どもが先行していたユニホームのインターネットピジネスのノウハウが盛り込まれています。それは、単にホームベージ掲載のみに留まらず、電子メールと従来からの媒体とのメディアミックスです。ちょうど私がプルネイ出張中に、娘から「山一倒産、どうする父さん」と言う電子メールと同時に、専務からインターネット活用で車が売れたぞという嬉しい知らせが入ってきました。ぞのほかにもカタログの請求がきたとか、同じホンダ系列のディーラーからこのホームページの仕掛けはどうなっているのかと問い合わせが相次いだということです。ホームページは話題性のあるブロモーション等を毎週書き換えていたんです。たまたま11月にホンダが販売台数で日産を抜いてトョタに次ぐ第二位になったというところも背景にあるのかもしれません。そして、その頃発表されたホンダ販売店を今のディーラーの数をかなり減らしていって、無人ないしは営業マンのいないネットワークを組んだサテライト・ディーラーをつくっていくといったニュースが入っているときに、車が売れたという吉報が届いた訳です。

その仕掛けはこういうことです。ホームぺ一ジをつくって情報発信して顧客に与えるということはどこでもやっていることです。インターネットというとホームページとおうむ返しのように言われますが、ホームページをあげただけでは、その中で物を売ろうとしても絶対に売れません。サーチエンジンにのせようが何をしようが、ぞれは自己満足にも似た物です。プルではなく、プッシユだとパナー広告をいくら入れたって、受け手の方はもう消すのがたいへんで、見たくないものがたくさん出てきます。
インターネットは欲しい情報を欲しい人が欲しいときに取れるというのが基本で、欲しくないものを垂れ流しにされると、木当に欲しい情報が取れなくなってしまうのです。私自身も運用上そういう流し方をしたくない。話がそれますがインターネットテレビやインターネット放送が受け手自身で選ベるのならいいと思いますが、ブッシュ型だといって、何かにまぎれてパンパン送り出すというのは嫌だという気が個人的にはしています。そこで何をするかというと、顧客の欲しい情報を適切なツールで届けるのです。まず「カタログが欲しい」という要求に対し、どう対応するかということです。この点は費用対効果の部分でユニホーム販売のほうがわかりやすいのでそちらの話をします。「電脳制服百貨店」には、ほとんど毎日のように、ユニホームのカタログが欲しいと、冷やかしも含めてメールが入ります。従来、オフィス・ユニホームは百貨店の外商を通じたり、法人ないしは自治体等の入札によってマスで販売します。当然ユニホームですから、100人の企業であれば100人同じものを売ります。それがユニホームのピジネズです。しかしサイパーでの問い合わせは個人顧客がほとんどです。費用のかかるカタログを間い合わせの度に送料を負担して送って未購入ではロスの増加です。そこでの改善策は、問い合わせ顧客に電子ノールでのやり取りを通じて購入要望の絞り込みをして、ホームページに新たなモデルを掲載して更に絞り込みをかける。最終段階でカタログやサンプルのやり取りで、色・サイズまでを決定する方法をとります。これは通常の衣服に比べてサイズ構成の多いユニフォームには必須の条件です。自動車販売よりも単価の低い分だけかえって、キメの細かい確認が必要になります。ポイントです。電子ノールのやり取りで、親近感を持って項き顧客の心を掴むのです。ホームページのなかでピジネスを始めて、意外なお客様が見つかってきました。それは舞台俳優の方が個人的にホームページを見て、こういう配役なんだけれども、こんなものはないかと、コスチュームのオーダーが出てきたのです。最初は半信半疑でした。舞台のコスチュームなどはどこかのスポンサーが着せているのじやないのかと。ところが小さな劇団ですとそれがない。看護婦の役があるのだが、ナーズキャッブからナーズシューズまでひとそろいで買おうとすると、どこに買いにいけばいいかわからない。病院に行っても売ってくれません。私のところの電脳制服百貨店のなかにはナース・ユニフォームが載っています。依頼のメールがあればカタログを送ります。カタログを送るとロズが大きい場合は、ウェブのなかでどんどん候補の商品を挙げていきます。これがいいというところで、始めてカタログやサンプルを送ります。そのやりとりには当然ひやかしもあります。ユニホームのカタログは1冊2千円、3干円の非常に厚いカタログです。
ですから、そのへんを見極めないで宅急便で送ると、まるまる赤字です。普通のファッション雑誌よりもきれいなので、大事に扱ってくれればいいのですが、捨てられてしまったら経費の無駄です。そのへんをメールのやり取りで裏付けをとるわけです。どうするかというと、男性か女性か、何人くらい必要か、どういうイメージですかといったことをやりとりします。ひやかしの場合はだいたいそれで音信不通になります。電話より安いです。電子メールのやりとりはマーケティングと思えばいい。そのリストもどんどんデータベーズになり増加します。ホームページに電脳制服百貨店をあげた翌日、問い合わせがきました。広島県の大手ワーキング・メーカーからでした。弊社のユニホームのカタログを送ってほしいという依頼です。発信元をみて、私どもで扱っているユニホームのメーカーだとわかるというとんちんかんなことがありましたが、そのときのメーカーの反応が非常に早かったのが驚きでした。その逆に、あるメーカーがユニホームのホームページを立ち上げました。取引のあるところですから、どうですかというメールを送っても反応がありません。営業の人に質間して、おたくのホームページはどうなっているのか、と聞くと、社内で誰も見ていないと言います。イン夕ーネットにホームページをつくらないかと誘われてつくったのはいいが、社内で誰も見ていないのだすうです。そんな所がそこかしこに見聞きされるのも実体の一部です。ホームページで車を売るというのはアメリカでは普通に行われています。全メーカーのものなり、複数のメーカーの車を比較対照できるようにつくられています。それが非常にポピュラーです。日本の場合は、各ノーカー別のホームページはありますが、物販というスタンスではなく、やはりカタログの延長です。車種が出ていて、エンジンルームが見られる、ステアリングの形状がわかる、色がわかる、色別の売上構成がでる、というような静態データはたくさん出てくるんですが、欲しいというユーザーの二ーズにはホームページ自体は答えていないのです。ホンダプリモ船橋ではまさにユニホームのノウハウと同じようにホームページを立ち上げ、新車を出す時には発表当日には必ずホームページで紹介し、有力顧客とはメールのやりとりをしていたのです、コミュニケーションツールです。ホンダ本社からのリンクにもwww.hondaprimo.co.jpが張られており、ホンダの本社とも連携しているわけです。ホームページでも車が売れますという裏には、前出のユニホームと同じようなメールのやり取りがあり、営業マンが相手先へ出向きました。ぞして専務が更にメールで対応し、契約が成立しました。これはホームページだけで売れたということではなくて、当然、営業に行った人間とインターネットというツールとの相乗効呆で売れたということです。ホームベージにあげれば車が売れると思
われるかもしれませんが、違います。ホームページのなかにもいろいろな仕掛けをします。たとえば、日赤の血液センターにライオンズクラブがホンダの車を寄付したことを、その日のうちに写真入りで掲載します。市の広報にもメールを送って取材に来てもらうなどメディアミックスを有効に使っています。インターネットにつないだら儲かるのか、ホームページを開いたら物が売れるのか、という質問には、ある意味では「はい」ですが、その裏にはアナログのやり取りがたくさんあるということであって、“デジタル・デジタル”と言うわけにはいきません。要は“アナログ・デジタル変換”しながらでないとビジネスにならないということです。そこには、通訳という需要も存在します。

ビジネス・ヒントというか、私のところで目指しているヒントの部分でこんなことを考えています。今皆さんと会場で話しているのは1対多です。インターネットの世界も1対多というコミュケーションはできるのですが、少なくともディスプレイとの距離は30センチのパーソナルコミユニケーションです。30センチの距離のコンテンッと、テレビという家族ないしは複数の人とのコミユニケーションの距離、つまり3メートルとか6ノートルの距離をもった時のコンテンツは、作り方自体が当然変わってしかるべきだと思います。しかし、現状はまだまだパーソナルなコンテンツしかないんです。もっと受け手のディズプレイの距離を離してラィヴ・コンサートをイン夕一ネットで情報発信しますといっても、大スクリーンでそれを皆で見ようというところまではいっていません。一部は実験をしていますが、コンテンツ自体は30センチの距離でのコミユニケーションツールと変わりません。これからの多チャンネル云々やらの問題も含めて、この受け手のデイスブレーからの距離の違いを考慮したコンテンツ面ではとてつもない大きなマーケットが残っているのではないかという気がしてなりません。ここのところは、私の専門外ですので触れられませんが、いずれ専門のところでは、当然もう狙っているであろうと思います。しかし、作り手側の論理優先での事だと思います。これらのコンテンッづくりはかなり重要なビジネスヒントのポイントではないかという気がしています。今年の春、地元のケーブルテレピと私どものホームページをリンクしました。こんな経緯からです。アイヌの民族衣装展を地元のギャラリーがやりました。平野さんという札幌にいるアイヌの民族衣装のコレクターが協力してくれました。私どものホームページにギャラリーの中身を掲載しました。それと同時に、アイヌとはなにか、アイヌ語はどういうものか、アイヌの衣装の模様にはどういう意味があるのかということを図書館で調べて、ホームページにあげました。(写真)それを地元の船橋ケーブルテレビが取材にきて面白いということでホームページをCATVで流したんです。CATVは1日3回、1週間同じ時間に同じ番組をずっと流します。ホームページの認知度向上にこんないい媒体はないわけです。見ている人の数はわかりません。船橋電脳絵巻というタイトルで毎週水曜日に流しました。ホームページとCATVというまさに、メディアミックスの1つの実験でした。テキストベーすに強いホームページと音声、動画像に強いTVとの連携は今後の課題です。今回の試みの結果がどうだったかというのは別間題です。その仕掛けのなかから次に何ができるかを見出すことがポイントだと思います。これはCATVに限らず、現状はテレピの画面のなかにURIJが出てきても非常に見づらいのですが、もしかしたらテレビとインターネットの相乗効果をあげることができるかもしれない。ハードの仕掛けということではなく、ソフト運用の部分です。現実のレベルで追加投資をしなくてできるようになるかもしれないという可能性があると思います。次のピジネスのキーワードになりえるであろうと感じています。アィヌの民族衣装展のホームページを残してありますが、今年の東海大学の学園祭でアィヌの民族衣装展をやるのだが貸してくれないかというメールが来たり、この試みからさらなるコミュニケーションの膨らみも出てきています。ここで重要なのは、インターネットは情報受発信の一手段であるが双方行性です。このケースでは、過去の来場者名簿の方ヘのDM、電話、そしてロコミを駆使した上にホームページ、CATVとメデイアミックスした点です。アナログの威力も絶大。

昨年9月に「スマートバレー・ジヤパン(SVJ)」という非営利団体が日本で立ち上がっています。アメリカのシリコンパレーを中心に始まったジョイントベンチャー「スマートパレー・ネットワーク」という非営利団体の日本版です。行政、企業、そこに住む人たち、大学などが一緒になって、まさに産学官民一体となって、住みよい活力ある明日のコミュニテイーをつくっていこう、そのためにはどうしたらいいのかというところからスタートしています。教育、通信ネットワーク、環境、健康などのプロジェクトをつくり活動しています。NPOです。私はその実行委員、事務局担当をしています。これも電脳企業家の一つの顔です。その発端は、シリコンバレーのサンノゼ市の酒場に企業のオーナーたちが集まって、当時景気低迷だった地域を元気にさせるためにいろいろと情報交換をしていくというところから生み出されてきたもので、今もなお、早朝の経営プレゼンテーション会議やベンチャー,キャピタルに対するベンチャーからの情報発信などを続けていて、地域の産業自体が復興して元気になっている実体は全米はおろか他の国や地域からも注目を集めています。その日本モデルをつくろうということで、96年の9月に旗揚げをしたのがSVJです。

ボランティアと言うと無償勤労奉仕と提えられるような日本の傾向と違い、その意味のように自主的な活動がモットーです。オープンネス、フエアネスを基本理念にに個々人の個性が尊重されるネットワーク社会の構築を目ざして活動しています。「山田電脳村祭」もSVJがサポートしました。この夏、学生が村の施設に宿泊しながら、山田村が住民にパソコンを配っただけで終わりにしてはもったいないということで、手弁当で操作相談と指導をしました。地元の新聞が1か月毎日カラーで連載を組んでくれましたし、「乎成の咸臨丸」というテレビ番組もつくりました。毎週水曜日の夜、CSで流していました。これも100%ボランティアによる制作で、NPOのところに取材に行き、NTTの編集施設を借りたり、ということをしてつくりあげました。このほかSVJはいろいろなプロジェクトを進めています。医療部分では、パーチャル・キッズ・パークをつくり、外に出られない小さい子供の入院者にパーチャルで外を体験させたり、メールで励まして元気に入院生活を過ごして退院してもらいましょうというプロジェクトもやっています。10月には有明のタイム24で白主運営によるベンチャーフェスタの開催もし、スタンフ才一ド大学のビルミラー教授のセミナーは立ち見も出るほどの盛況でした。学生ポランティアも含めた一日のみの開催で千人以上の集客をしました。スマートバレーのジョイントベンチャー方式に学ぶ、新たなコミュニティー作りの中にも今後の情報通信ビジネスヒントが秘められています。

私は、メーカー発想からでは明日の暮らしやすい生活は生まれない、使う人がつくる人発想こそがビジネズの原点ではないかと考えています。さきほどのソニーの前田さんの話でおわかりでしょうが、ソニーという企業はまさにこれをやっているということです。今日、大手のテキスタイル・メーカーの方と8年ぶりに会って話をしたのですが、売上げを上げるとか、生産性を上げるということを生産技術者に言うと、設備投資をして倍つくるという話になってしまうそうです。効率良く大量につくることが仕事をしている事だと言います。でも、それが売れなかったら在庫の山になってしまうわけです。私が西友余暇事業部に所属し、「無印良品」の開発に携わっていたのは、セゾングループがまだ元気だったころで、堤清二さんが社長でした。無印良品は1980年当時PB(プライベートブランド)開発がNB(ナショナルプランド)を意識した線上での開発視点をずらした事に成功の秘訣があります。言い換えればNB追従型では成功はあり得なかったですし、作り手の論理からは絶対に生まれなかたと思っています。そして、開発に携わった社外ブレーンの活用でした。
当時三つの特徴「素材の選択」「行程の点検」「包装の簡素化」=『わけあって安い』。ぞれをきちんとメッセージとしてパッケージ、ポスター、ブローシャ等に表示した訳です。今でもまだまだこれは新鮮ですし、新規事業開発の基本と思っています。それは、顧客からの声と開発担当者たちと先鋭的マーケッターとのデスカッションから鮮明になったコンセブト作りからヒット要因が生まれました。

私の起業は1989年。それから4年、企業30年説ではないですが、私が籍を置いていたセゾングループの西友が、ちょうど創立30周年の年に大リストラをしました。3千人です。私も残っていたら対象でしたが、運よくその前に退社していました。あるメーカーの人から、いいときに辞めたなと言われました。星のめぐり合わせというものでしょうか。確かにそういうものがあるようです。商品部に行く前に多くの店舗を回りました。店舗を回っているときにどんな現象が起きたかというと、私が行くと店の売上げがピューっと伸びるんです。実力ではなく、たまたまトレンドで伸びる2年くらい前にそういう店に移動になっていくわけです。そこに移動すると伸びる。伸ぴざかりのピークの直前くらいの店にうまく当たるんです。あいつが行くと仲ぴるという神話みたいなものかできました。そのころは同じ日に2店舗出店したり、年間30店舗くらい出店しているときですので、企業も非常に勢いがありました。タイミングの悪い人は、私の後を引き継ぐ人です。これは実力ではありません。ピークで引き継げば、当然その後の数字が落ちます。そういう人は不思譲とピークの店に移動するものです。あいつが行くと落ちる、柳田が行くと伸ぴる。これは、行ったから伸ぴるのではなくて、伸ぴているところに乗っかっているだけなんです。そんなことがあって、「電脳起業家」という企業を始めたときも非常にいいタイミングで立ち上がれました。その後、為替の変動なども見ながら、海外を歩き回り、軸足を衣料品の生産、輸入業務、商社というスタンスからソフトの部分にかなり移しています。まだ100%は移していません。なぜ移していないかというと、非常に怖いことがあったからです。ニフティのなかでFBィンクというフォーラムがあります。ここは起・業家を志す人たちのフォーラムで、老若男女いろいろな人がいます。そこの起業の話を聞いていると、いまどきの企業を起こそうという人は、企業をつくったら永続させようという気はないんです。いいときにやったら2年でも3年でも振り逃げでいい。学生ベンチャーが何を考えているかというと、学生時代に一旗あげて儲けて、卒業したらまた別なことをすればいい、もしくはどこかの官庁かなにかで定年までじっくり過ごしたい、と。それは少し違うのではないか。企業が社会的責任を感じたら、「つくりました、つぶしました」は許されないはずです。コンテンツの問題やインターネットがらみのビジネスをする前に、94年に私は何を考えたかというと、最初は当時プロパイダーをやろうと思いました。東京インターネットに行きました、IIJ、に行きましたし大手のプロバイダーの方といろいろお話をしました。プロパイダーというのは儲かるという話が出ていたころです。インターネットにつないだら儲かるの、という発想に通じるものです。東京インターネットでこんな話を間きました。あなたもそういう考えでいらっしやいますか。最近よく八百屋さんや肉屋さんが来ます。店の売上げは伸びないけれども金はある。プロパイダーをやったらお金がどんどん入ってくるぞうではないかと言う。パソコンをもっていますか、と聞くと、そんなものは持っていないけれど金はある、と。ぞれだけでブロパイダーをやっていいのだろうか。次にIIJに行って話をしました。あなたはシステムをいじれますか、インターネット関係の管理が全部でぎますかと聞かれ、できませんと答えると、そのスタッフを雇ったらいくらかかるかわかりますか、月100万円でも1人も来てくれないと言います。そうすると立ち上げるのは簡単ですが、子守をするためのオペレーション・コストを考えるととてもできない。振り逃げで半年やって逃げてビルを建ててもいいのですが、月夜の晩ばかりではないだろうと思い止まりました。そこでもっと日線を下げました。実際にインターネットというものに触れたときに何を感じるのかという、このへんが元小売りの性なのですが、いちばん末端のエンドユーザーから情報を得ながらビジネズ,ヒントを取っていこう、と目線をずっと下げました。それが「インターネット・サロン」を立ち上げた経緯です。なぜサロンといっているかというと、地元でインターネットにつながった人は遊ぴにいらっしやい、狭いけれどもここの事務所も開放するから、パソコンを触るのも自由、わからないことは何でも間きにこい、ホームページをつくりたければ教えるからおいで、プロバイダーと契約したけれどつながらないという人もいらっしやいという、まさに駆け込み寺です。こうしてつながっていって、いま連携ネットワーク協議会を立ち上げようというところです。ネットワークにつながった結のところの接点、この墓本は何かというと、柳田の顔を知っている、話したことのある人たちがつながっていったのです。つながっていくと、さらにその人達のネットワークがあって広がりますので、とてつもない数の人がネットワークでつながっています。今回のアセアン・レポートもそういう仲間に送った、ブライベート・メールです。ぞれが共感、連体感につながる訳です。

帰国1週間21日間のアセアン適信状況をかいつまんでお話します。出発の日、朝7時に日課のメールの受発信をしていました。ちょっと気になってJAl1のホームページを開けました。10時50分に飛ぴ立つはずの飛行機が2時間ディレィになっていました。ホームページをまだ信用していませんから、どこかに確認を取りたい。ところがホームページの中には連絡先も何も出ていない。当然メールを送づても相手はまだいません。そうこうしている間に8時半くらいにJALから電話がかかってきました。2時間ディレイのことを知らせてくれました。一緒に行く伸間が新宿から出て、空港で10時の待ち合わせで家は出てしまっている。せっかくのホームぺ一ジの情報が役に立ちませんでした。こういうことから始まって、アセアン4か国を回ったのですが、行く前にブルネイはつながらないけれども、他の国は大丈夫だよと聞いて出ました。これは本来であれば行く先々でつながるような環境を持って出ればよかったのですが、たまたまバタバタとしていたために、東京アクセスのブロバイダーのものだけを持って出てしまって、現地から東京にアクセスしました。これは後梅しました。各国現地のアクセズポイントを得るべきでした。最初のインドネシアは非常に快適でした。ホテルのワすクデズクの横にはちやんとモジュラージャックがついていて、ダイレクトにそこからとれる。インドネシアは比較的スムーズにいった。後半、つながらなくなった時期がありましたが、:ぞのときはホテル内の内線が、ある時間帯によってパンクしていたんです。次にブルネイに入りました。

ブルネィはまずつながらないんです。国際回線が悪いのではなくて、国内の通信事情がまだそこまでインフラ整備ができていないのでしょうか。つながっても、回線スピードは比較的遅く中断も頻繁でした。
そんな中『父さんどうする、山一倒産』と言う娘からの電子メールが飛び込んできました。これは、この春結婚した娘にブレゼントした、結婚披露の親馬鹿ホームページとメールアドレスの賜物です。CNN、BBCも受信できていたのですが詳細をニュースでは流しません。WWWで日本の新聞を見ても状況が掴めない。これには、参りました。メールでの情報収集をして事態を把握して事なきを得ましたが、これもインターネットアクセス環境あればこそのメリットです。その後に入ったマレーシアは抜群でした。空港とクアラルンプールのちょうど中間点くらいにマレーシアが“シリコンパレー(コリドー)”をつくっています。高速道路で空港から中心街まで30分くらいですが、その中間点の15分くらいのところの丘陵地帯に高層ビルが建って、非常にきれいな開発をしています。ここはもしかするとアジアのハプになるかもしれないという気がしています。フィリピンではマニラ近郊のホテルは問題なし。セブに行くとちょっとつながりが悪かった。帰りの飛行機の中で最後のメールをつくう、機内からです、と書いて帰国してから発信をしました。「機内からです」と書いたものですから、機内からどうやって発信するんですか、という質問が来ました。将来、空から電波が降ってきて、機内からでも車内からでもどこからでも送れるようになると思います。http://www.k-one.co.jp/ASEAN/に詳細を掲載してあります。

最後に、電脳起業家の紅余曲折のなかでの成功のカギについて三つ申し上げます。デジタルの部分ではなく、アナログのお話です。
大分県のしいたけのドンコは日本でいちばんおいしく、料亭でないと食べられないと言われています。無印良品の開発をしているときに、その大分ドンコの割れたものを「割れしいたけ」として売り出しました。ドンコは割れてしまうと不良品となり、大手の料亭には売れなくなってしまいます。しかし、家庭で使うぶんには差し支えがなく、味は大分のドンコです。“味に変わりはないじやない”というキーワードです。それから、鮭告。鮭の缶詰は身が丸く人っていて、その真ん中に背骨があります。それが鮭缶の中身です。頭と尾は拾てていました。その頭肉も中身に入れると、中心に背骨はありませんけれども、鮭の昧には変わりがない。しかも値段は安くなります。“しやけは全身しやけなんだ”というメッセージになるわけです。もうひとつ、パブル全盛のころにゴルフウェアやスキーウェアなどスポーツ用品の開発をしました。スキーウェアは、保温性に富み、雨をはじくが、汗は外に逃す、風は遮断すると多機能が要求されます。ゴルフウェアもそうです。それに合う薄くて、軽くて、温かい生地を探していたときに思いついたのが自衛隊で使っているパラシュートの生地です。これは風を通しません。風が通ったら落ちてしまいます。温かくする素材としてはダウンがあります。それを包む生地の目が粗いと小さな羽根が外へ出てしまいます。きめの細かい生地でなければなりません。といって、内部をピニールのようなものでコーティングしてしまうと、ダウンは呼吸ができなくなって死んでしまい、保温効呆が落ちてしまいます。ぞのときに思いついたのがコンピュータやワーブロ用のリボンです。リボンの品質基準は非常に厳しく、ちょっと傷があっても不良品になってしまいます。ロスがたくさん出ますので、安く入手することができます。物をつくるとき、同じズタンス、同じ見方をしないで、ちょっと横とか裏からみると、素材として使えるものがたくさんある

ものです。スキーウェアは多機能を求められていますが、ユーザーがそのすべてを要求していないときには、単一機能に分割していくと非常にシンプルで、いいものができます。いまのパソコンは多機能を追い求めています。しかし、実際に自分で使ってみると、常に便うのはそのうちの1つか2つ、せいぜい3つです。単一機能の安いパソコンができたら、携帯電話やPHSのように無料で配るようなことになるかもしれません。重要なのは、最初から低価格商品として計画するばかりではなく、視点を一寸ずらしてみると思いがけない所にメリット発見があって新鮮な切り口となるのです。もう少しビジネスヒントとしてベンチャースタンスで付け加えるならば、「嫌いな人は嫌いな商品」「小・中量生産、廉価品」「個性の表現」「成功の3本柱は、良い商品十良い情報十良い環境」「国際的視野」「マスヘのアンチテーゼ」なのでは。


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